東北旅行9 前田慶次供養塔 堂森善光寺
2010/1/2 一泊二日 走行880k (ページ2/8 ) 前のページへ 2023/9更新
11:44 米沢のどかな田園風景を走る。
堂森善光寺は、正式な記録は火災による焼失で残っていないが創建は1192年とされている。井時広夫妻座像と全国でも珍しい横向きで救いの手を差しのべる見返阿弥陀如来があり県指定重要文化財にされている。
戦国武将天下のかぶきものと称された前田慶次が万世堂森で余生を過ごした説があり昭和55年10月に供養塔が建立されている。命日の6月4日には慶次郎供養祭(11時~)が行われ、近年では空手家の角田信朗が戦国パチンコ「CR花の慶次」のテーマ曲を歌っていたり、2009年の大河ドラマ「天地人」の上杉家家臣柿崎晴家役で出演した事もあり訪れている。2011年には400回忌になるのでさまざまなイベントが行われるらしい。
前田慶次供養塔は綺麗に咲いたあじさいに囲まれ、傾奇者らしくお寺の中でも傾いていた。
前田慶次供養塔碑文があり、
前田慶次は小田原攻めに参戦 後、己を知る天下唯一の武将として直江兼続を知り、その主上杉景勝公に生涯を託した。最上討伐には殿軍を努め完全撤退をはたして戦史に名を留めた。後この堂森に居を賜り邸を「無苦庵」とよび悠々自適にこの地を愛し郷民と親しみ1612年6月4日に70才の生涯を閉じた。慶次は天性豪放磊落機奇行にに富み、文武は勿論広く諸芸道に通じ、無苦庵記 道中日記 亀山文殊奉献和歌がある。前田低跡、慶次清水、月見平に今も慶次は生きている。
と書いてあった。
慶次は一花院に埋葬された説があるが、現在は廃寺になっていてお墓の場所は不明らしい。
前田慶次(利益) 略歴
前田慶次の実父は織田家重臣の滝川一益の一族の出身で、幼少の頃に実母が尾張荒子城主の前田利久(前田利家長兄)と再婚し養子となった。ゆくゆくは前田慶次が尾張荒子城を継ぐはずだったが、利久が病弱だったり、慶次が養子な事もあり、織田信長によって、1567年に利久は隠居させられ代わりに弟の前田利家が継ぐ事になった。その後は資料が無く実父を頼り滝川一益に仕え、そこで武勇を磨いていた説がある。1581年に前田利家が信長から能登国をもらい大名になると利久は利家を頼り仕えた。1590年の北条小田原征伐に利家に従って従軍する。その後1587年に養父の利久が没した事で前田家の縁や義理が無くなった事もあり、妻子を残し前田家を出奔する。寒い日に利家を茶に招き、騙して水風呂に入れて出奔した逸話がある。出奔後は京都で多数の文人と交流し和歌や連歌を詠むなど自適の生活をおくった。そのころ上杉家重臣の直江兼続と知り合い上杉景勝の人柄に魅かれ仕えた。関ヶ原の合戦では畑谷城攻めや長谷堂城の戦いの撤退戦で殿を努め功を立てた。
関ヶ原の合戦後、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減封され、長谷堂城の戦いの活躍で名を轟かせた慶次は他藩からの好条件な誘いを断りわずかな知行で米沢藩に仕え、米沢郊外の堂森に「無苦庵」という小さな庵を建て隠棲し70歳で生涯を閉じた。
キセルや黄金色で桜柄の扇子もあった。張り紙があり前田慶次供養御線香は30円、前田慶次供養絵馬500円で売られているらしい。
12:10 月見平はひょうたんの形をしていて、慶次はひょうたんが好きだった様でわざわざひょうたん型にしたらしい。
景色は米沢の田園風景と市街地が見渡せ中々景色がいい。でも目の前に大きな給水塔があり邪魔な感じがした。酒や肴を持ち込んで直江兼続や郷民を招いて月見を楽しんだらしい。頂上なので景色もよく風通りもよく涼しく気持ちがよく慶次みたいに酒と肴をもって酒盛りをしたくなった。各々しばらくたそがれてから下山する。
12:21 来た時は開いていなかった「一夢庵」が開いていて前田慶次グッズが売っていた。
前田慶次や直江兼続や上杉家の情報誌が置かれていて自由に読む事も出来る。角田信朗の色紙がここにもあり「傾くなら傾き通せ!!」と書いてあった。
ガッチャは店番の住職らしき人とパチンコや慶次の事で話が合い語り合っていた。CR花の慶次のパチンコ台も置いてあった。ガッチャは新潟県産のキセル(3,000円位)が気になったが、お金がないので前田慶次の情報誌を買っていた。
12:30 出発し次は昼食を食べに4年ぶりの安くて美味しい米沢牛が食べられるミートピアに向かった。ここから5㌔程走る。
前田慶次供養塔 堂森善光寺
住所 山形県米沢市万世町堂森375 駐車場有