一人旅 群馬旅行6 箕輪城跡4/6 二の丸 本丸
2022/7/4 2泊3日 走行480km (ページ 4/23 1~6箕輪城 7四万の甌穴群 8~10柏屋旅館 11奥四万湖 12道の駅中山盆地 13ミート工房 14~15錦綉山荘 16~19花寺 吉祥寺 20道の駅 川場田園プラザ 21~22こんにゃくパーク 23めんたいパーク 群馬) 前のページへ
12:13 三の丸から二の丸に到着。
二の丸は縦横約80mの曲輪で本丸が守りの曲輪に対し二の丸は出撃の拠点だった。二の丸は東は搦手口、西は白川口・大手方面、南は大堀切土橋から木俣方面へと四方に移動でき出撃時の拠点だった。
箕輪城案内図あり。
トイレ・休憩できる東屋あり。
トイレ隣に分岐があり真っすぐ進むと本丸方面。
右に下れば駐車場のある搦手口に戻る。
12:16 本丸へ向かう。
本丸門馬出が見えてきた。案内板には本丸門馬出しは東から南に鍵形の土居のった馬出しで、土居の北側から搦手へ南側からは二の丸へ出撃する。本丸の南側の突き出ている部分はこの馬出しの内外を側面から守る様にできている。
本丸と御前曲輪の間の空堀は東部が浅く西部が深く西の空堀に降りる通路となっていた。空堀底は初期にはすべて交通壕であったが後に堀り下げられててその働きを失ったらしい。
南の本丸の虎口(出入口)は前に「曲尺馬出し」がつき本丸南部から突き出して虎口前を側面から防ぐようになっている。
歴史
明応・永正年間(1492~1511)に長野業尚が築城し、子憲業、孫業政により強化された。
長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世にあくまでも関東管領山内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。
特に、長野信濃守業政は、弘治年間(1555~1558)から数回に及ぶ信玄の激しい攻勢を受けながらも譲らず戦い抜いたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。
業政の死後、子業盛は父の意思を守り将兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9年(1566)9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った城主業盛は、「春風に 梅も桜も 散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏の在城は六十余年である。
武田氏の時代は天正10年(1582)その滅亡によって終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。
天正18年(1590)、北条氏滅亡後徳川家康は重臣井伊直政を12万石でここに封して関東最北の固めとし、城下町も整備した。その後慶長3年(1598)直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。
構造
箕輪城跡の標高は270m、面積は47haに及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は榛名沼、東と北とは水堀を巡らして守りを固めている。
城は深さ十数mに及ぶ大堀切で南北に二分され、さらに西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されている。
御前曲輪で発見された井戸をはじめとする多くの井戸や祭戸堰用水によって城の用水は完備していた。特に法峯寺郭は、江戸時代の兵書「手鑑」にも引用されているほどにすぐれた用水である。
六ヶ所の「馬出し」や、櫓あとの石垣をはじめ各所に半ば埋もれた石垣も残されている。
本丸の奥にある2022年3月に復元された木橋を渡れば蔵屋敷跡や三の丸へと行けるようになった。本丸と蔵屋敷を繋ぐ木橋は長さ29m、幅2.4m、高さ6mある。発掘調査で礎石の配置などを参考に橋脚や欄干などに当時の意匠を取り入れ造られた。2018年から造られ工事費は約一億円。
木橋からの堀。遊歩道の中央コースが続いている。
蔵屋敷。左に下ると三の丸。
隣にある御前曲輪に向かった。