一人旅 群馬旅行7 金山城跡7/7 新田神社 実城(本丸)

2022/7/20  2泊3日 走行480km (ページ7/18 1~7金山城跡 8やんば見放台 9~15万座ホテルジュラク 16幻のキャベツ 17~18中之嶽神社) 前のページへ


10:53 南曲輪から実城(本丸)へ向かう。金山のハイキングコースになっていてたくさんのハイカーの方々がいた。


石段を上がる。


石段を上がると少し高台になった御台所曲輪前にでた。左に進むと実城(本丸)。


右に進むと新田神社の一ノ鳥居があった。


鳥居の先は石階段の参道が続いていた。


実城(本丸)へ向かう。右側が御台所曲輪。


御台所曲輪。


御台所曲輪の石碑。


左側に本城の案内板。金山城の中枢で、水ノ手郭を中心として約一万坪ある。実城とも言い城主の御殿があった所なので城主を実城殿とも呼んだ。
御殿の礎石は、大欅の南方平地に列石状に出土した。主要郭は六ケ所、腰郭には三ヵ所、武者造り、堀切りは壕内道を兼ねている。
本城内に於て、実城、内方、小座、旦那、御入、局等の名称が見られる。


案内板裏からは大手虎口が上から見渡せそう。


案内板から少し進むと太田市指定天然記念物の金山の大ケヤキ。案内板があり、樹高17m、目通り周6.79mの大ケヤキ。樹高はそれほど高くないが、目通り周においては県内でも上位に位置し枝張りも40mを超える。推定樹齢は800年程と伝えられ金山のシンボル的存在。新田神社の参道脇にあることから御神木と同様の扱いを受けていたと思われる。


大ケヤキを過ぎると実城(本丸)にある新田神社が見えてきた。少し急な石段の参道と右側に仮設のスロープがあった。


右側は開けた広場になっていていた。実城(本丸)の周りはぐるっと一周できる。新田神社裏側には本丸残存石垣が残っていている。


実城(本丸)や新田神社までの石段とスロープ。


足を骨折して歩くリハビリ中なので痛むが石段を登る。踏面が狭く段差もありしんどく息が切れた。


石段を上がった先に新田神社の二ノ鳥居と狛犬。


新田神社の狛犬のは、出雲地方に多い、かまえ型(勇み型)で参拝する人をお迎えしているそうだ。


横と後ろ姿。


11:01 二ノ鳥居の先には新田神社と史跡金山城址の石碑があり実城(本丸)に到着。


左の方に蛇口型の手水舎と本丸址の石碑。


金山城は、群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8mの独立峰、全山アカマツに覆われた金山に築かれた日本の山城。金山城は全国に複数あり、別名「新田金山城」、「太田金山城」。日本100名城の一つ(17番)。

金山城の歴史
金山城は1469年に新田一族の岩松家純によって築城され、下剋上によって城主となった由良氏の時代に全盛を迎える。上杉謙信や武田勝頼などの有力戦国大名から10数回に及ぶ攻撃を受けたが、金山城は一度も落城することなく、その堅固さを誇った。しかし、北条氏の謀略に落ちて支配下となっていた1590年、豊臣秀吉の北条氏征伐により金山城は廃城となった。

歴史年表

1469年 岩松家純の命により金山城築城
1495年 明応の乱 佐野小太郎、金山城を攻める
1528年 享禄の変 横瀬氏が実験を握る
1565年 この頃、横瀬氏は由良氏に改姓
1573年 由良国繁、桐生城を攻略する
1574年 上杉謙信、新田を攻める
1580年 武田勝頼、新田・館林を攻める
1584年 由良国繁、小田原に軟禁され、国繁母の妙印尼は孫の新六郎(眞繁)を大将として金山城に籠城する。国繁の助命を条件に北条氏に降伏し金山城を明け渡す(桐生城に退く)
1585年 宇津木氏久ほか数名の在番が置かれる
1587年 清水太郎佐衛門正次、金山在番を命じられる
1590年 前田利家ら金山城を接収。金山城廃城。由良国繁、常陸(茨城)牛久に領地を得る
1629年 献上松茸始まる
1688年 金山、将軍家御用林となる
1875年 新田神社、金山に創建される
1934年 金山城跡が国史跡に指定される
2002年 史跡追加指定(18.3ha→97.8ha)
2006年 日本100名城(17番)に選定
2009年 史跡金山城跡ガイダンス施設開館


金山城主系図。


新田神社拝殿。新田神社は、金山山頂にある実城(本丸)に鎮座している神社で、1875年に新田義貞の子孫や地元有志の出願により金山城本丸跡に創建された。鎌倉幕府倒幕を成し遂げた南朝の地元の武将、新田義貞公を祭神として祀っている。新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼした武将として有名で、勝運のご利益がありそう。


授与所は閉まっていて賽銭箱前に御朱印が置かれていていた。御朱印についている小袋に朱印代金300円を入れて賽銭箱に収め御朱印を頂く。御朱印は御嶽神社と新田神社の二種類ある。


二ノ鳥居横にある授与所は正月の三が日のみ開所される。


新田神社の左隣にある御嶽神社。国乃常立神・大己貴神・少彦名神を祀る。大己貴神は別名、大国主神で縁結びで有名な出雲大社の御祭神でパワーを頂けそう。


御嶽神社の左隣にある梅若稲荷神社。宇迦之御魂神を祀る。ここを訪れた時に急に突風が吹き出し驚いた。神様に歓迎されたサインだったら嬉しい。



新田神社の授与所前に絵馬掛け所や休めるベンチがあった。絵馬は拝殿の前のケースに入っているそうだ。


天守曲輪(本丸)の案内板。本城最高位の郭で戦前本丸と言われていた。西北の角には金山城最大の石垣が使用されていて角矢倉形式の大建築物があった。この郭は金山城鎮護の神聖な地域であり、源氏の守り神でもある八幡宮が祀られていた。このため、水ノ手郭の貯水池は「神水」と呼ばれていた。
廃城後は新田義貞を祀る新田祠という小さな石宮があった。構造上の特徴としては東北の角を削って「ひずみ」を作り「鬼門除け」がある。
長野県の上田城にも「鬼門除け」があった。


砲弾が奉納してあった。説明書きは無かったので調べてみたら、日清・日露戦争時に戦勝記念として多くの神社に配られたそうだ。


南側にある、宮城(皇居)遥拝所。宮城遥拝とは、日本や大東亜共栄圏において、皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝、拝礼)する行為。日本国民が天皇への忠誠を誓う行為の一つで、特に第二次世界大戦中には、天皇へ忠誠を介して戦意高揚を図る目的で、宮城遥拝は盛んに行われたそうだ。


宮城(皇居)遥拝所からの景色。皇居は右の方。



大正天皇・昭和天皇等、皇族の方々の腰掛石。
11:10 新田神社裏側にある本丸残存石垣に向かった。


一度下まで下りる。スーロープを使ったら楽に下りれた。下りて右に曲がり新田神社の裏に向かう。


梅若稲荷神社への石階段があった。



獣が飛び出してきそうな怪しい道を進む。左側はたぶん二ノ丸。


本丸残存石垣の案内図。


途中、ぐんまこどもの国側へのハイキングコースの分岐道があったが、イノシシ侵入防止による登山口の封鎖により通行止めらしい。



本丸残存石垣。案内板があり、金山城は全域を石垣で築かれた関東地方では珍しい城。石垣用材は金山石が手近にあるので使用し、大きな石は柱状節理の山麓の根石を山頂、山腹まで持ち上げた大工事だった。積み方は「野面積」で長い石の大きい面を奥に、小さい面を表にてあるため、別名「ゴボウ積」とも言われる。断面は直線的で緩傾斜し、栗石を充分使用しているために堅固だった。


実城(本丸)裏は腰曲輪になっている。


本丸裏馬場址の石碑。案内板があり、天守曲輪裏馬場は、馬場というが実際は馬屋のある郭。馬は山城でも伝令用として使われてたので、馬屋の必要があるが、音に敏感な動物の為、敵の攻撃にさらされないよう、城郭でも静かな裏側に設けられた。ここには馬薬用としての「さいかち」が植えられてある。


本丸裏馬場。


陽が当たらず薄暗い本丸裏を周っていると遠くに光が見えてきてきた。


武者走址の石碑。左に細い降りる道があり戦時中の連絡通路の様だ。


南側に出てきた。


下に武者走りが長く続いている。


関東平野が見渡せた。足利・佐野方面の景色。


御台所曲輪が見えてきてきた。


御台所曲輪。
11:15 金山城跡の見学を終え駐車場に戻る。大手虎口をもう少し散策した。


11:29 竪堀に架かる木橋まで戻る。しかし大きな蜂が数分間、木橋に止まっていて退路を断たれ恐怖だった。
11:40頃 駐車場に戻る。休憩を入れずざっと見学してみたら90分程かかった。時間があれば見附出丸も見学したかったがまたの機会に。

金山城跡

住所 群馬県太田市金山町40-106

11:50頃 次は今日宿泊する群馬県嬬恋村にある万座温泉に行く途中にある、八ッ場ダム見晴台に向かった。ここから85㎞程下道を走る。


12:50 国道17号(上武道路)を走る。新しい道路で高速みたいに空いていて快適に走れた。

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