一人旅 伊豆旅行5 北条氏邸跡 守山西公園
2022/7/11~13 2泊3日 走行500km (ページ7/27 1寒川神社 2~5山中城跡 6山正 沼津南店 7北条氏邸跡 8守山 展望台 9~10桂の泉 11蛭ヶ島公園 12~15修善寺温泉 16~18坂聖・玉樟園 19松原公園 20堂ヶ島のトンボロ 21~22堂ヶ島公園 23イカ丼 24はんばた市場 25黄金崎公園 26大瀬崎 27大瀬神社) 前のページへ
沼津市から国道414号を走り、左は狩野川放水路。先に進むと江間に入り近くに江間公園があり北条義時屋敷跡がある。北条義時は次男で当初は後継ぎ候補ではなく所領を江間に与えられ分家を立てて江間小四郎と名乗っていた。
国道136号から守山方面へ曲がると北条の里駐車場があり無料で止められる。(利用時間9時~17時 住所静岡県伊豆の国市寺家130−6)ここから頼朝・政子の語らいの路や北条の里さんぽ路が整備され、北条氏縁の地の標高101.8mある守山周辺を散策できる。近くに願成就院がり北条時政の墓や北条政子産湯の井戸がある。願成就院の拝観料は大人400円 中高校生200円 小学生100円。
途中に北条義時ののぼりが左側にあり左に進むと北条政子産湯の井戸がある。
源頼朝の妻の政子は北条時政の長女として1157年にこの地に誕生しその時に産湯の水をとったのがこの井戸と伝えられている。この井戸の水は北条政子の伝承からかつてはこの水を飲むと安産になるという信仰があったそうだ。
右側は伝堀越御所跡。「堀越公方」と呼ばれた足利政知の御所があった場所。
室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し各地で戦乱が起こり、とくに関東地方は、京都にある室町幕府に従う勢力と対抗する勢力とが激しく争っていた。将軍の足利義政が直接関東地方を支配するため1457年に鎌倉公方として派遣したのが兄の足利政知。しかし政知は戦乱のため関東(鎌倉)まで行くことができずここに御所を構たて政知は「堀越公方」と呼ばれた。政知の死後、1493年に伊勢宗瑞(北条早雲)によって滅ぼされた。伊豆韮山の地で公方が都風な生活をおくっていたことがわかる貴重な遺跡だそうだ。
国道136号から曲がり直進すると狩野川に突き当り左に曲がると守山西公園駐車場がある。
14:33 守山西公園駐車場に到着。18台止められ駐車場は無料。(利用時間9:00~17:00 住所 静岡県伊豆の国市中條469-5)外に出ると30℃を越えているので熱かった。
トイレや自動販売機あり。
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の広告や守山の歴史の年表があった。
1160年 源頼朝、伊豆に配流
1180年 頼朝挙兵 頼朝鎌倉に入る 富士川の戦い
1185年 平氏 壇ノ浦にて滅亡 頼朝、守護・地頭を置く。
1189年 北条時政、奥州藤原氏征討を祈願し願成就院を建立し藤原氏を攻め藤原氏滅亡
1192年 頼朝、征夷代将軍となり鎌倉に幕府を開く
1199年 頼朝没
1205年 北条時政、陰謀の罪をかけられ北条氏邸に隠居
1215年 北条時政、伊豆国北条館で没する
1221年 承久の乱がおこる
1225年 北条政子没する
1232年 北条泰時、御成敗式目を定める
1274年 文永の駅(元寇)
1281年 弘安の役(元寇)
1333年 鎌倉幕府滅亡 覚海円成尼が戦死者の菩提を弔うため円成寺を建立
1338年 足利尊氏、征夷代将軍となる
1454年 亨徳の乱(関東地方が大いに乱れる)
1455年 足利政氏、古河に本拠を移す(古河公方)
1458年 足利政知、関東公方として関東下向、鎌倉に入れず韮山に御所を構える(堀越公方)
1467年 応仁の乱がおこる
1493年 北条早雲、伊豆に入り堀越御所を襲い、その後韮山城を築城
平安時代の終わりに守山に北条氏が移り住み北条氏邸跡や氏寺の願成就院などを整備してこの地を一族の拠点として整備した。
1160年、平治の乱に敗れた源頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流され、1980年、平氏打倒を揚げて挙兵し、頼朝を支援したのが妻政子の実家である北条氏だった。頼朝が鎌倉幕府を確立すると時政・義時父子をはじめ北条氏は頼朝の側近として支え頼朝の死後は執権につき幕府第一の権力を得るようになった。
鎌倉幕府滅亡後は鎌倉幕府最後の執権の北条高時の母の覚海円成尼に北条氏邸が与えられ北条氏の子女の保護と元弘の変の死者供養のために円成寺が開かれた。室町時代にはこの地が伊豆国の中心地であったため鎌倉に入ることが出来なかった堀越公方がこの地に御所を構えた。北条早雲により堀越御所が攻められ政治的な中心は市内の韮山地区に引き継がれた。平安時代末期から、室町時代まで300年余りの間、守山周辺のこの地域は北条氏の拠点として伊豆地域の中心として機能していた。
守山西公園案内図。駐車場を出て右に進むと北条氏邸跡がある。
14:37 北条氏邸跡へ向かう。
左に狩野川さくら公園入口があり、狩野川に降りる道があり行ってみた。狩野川さくら公園には道路沿いにソメイヨシノが約100本植えられていて3月下旬~4月上旬には花見客でにぎわうそうだ。
下に降りると穏やかに狩野川が流れていた。北条義時が生まれ育った地でここで遊んだりこの景色を眺めていたのかもしれない。狩野川さくら公園の駐車場は特に区切りが無く堤防下に自由に50~80台止められ花見のシーズンも無料で止められる。
14:39 「北条義時の縁の地」ののぼりがたくさん見え北条氏邸跡に到着。
平日なので人っけはない。
右側に守山展望台へ行ける守山遊歩道が続ている。
案内板やパンフレットが置いてあった。
守山の上からの写真。北条氏邸跡は鎌倉幕府の執権として活躍した北条氏の館があった場所で、狩野川の東岸にある守山の北西部の小さな谷なっている所にあった。この付近は平安時代から鎌倉時代にかけて北条氏の本拠地で北条義時はこの地で生まれたと考えられる。
守山史跡案内図。①北条氏邸跡②堀越御所跡
③成福寺 北条時宗の子の北条正宗が開祖で北条氏一族の菩提を弔い子の宗仁が修造し成福寺とした。北条一族の供養塔がある。
④守山八幡宮 源氏の守護神の八幡神を祀る神社で、源頼朝は平家追討の令旨を受けると開く前に守山(八幡宮)を遥拝した。
⑤願成就院 欧州藤原氏征伐成功を祈願して北条時政が建てたお寺。
⑥満願寺跡 発掘調査で鎌倉時代頃に寺院があった。真珠院にある静堂はここにあったといわれる。
⑦真珠院跡 山門を入りすぐ右側に静姫(八重姫)を祀った供養堂がある。伊東から頼朝を追ってきた伊藤祐親の娘の八重姫は頼朝の心変わりを知り寺の前で真珠ヶ淵に入水し果てた。
14:40 北条氏邸跡見学通路入口。史跡の一部を暫定公開している。公開時間は9:00~17:00。白い砂利道で舗装されていて史跡北条氏邸跡(円成寺跡)の碑があった。
史跡北条氏邸跡(円成寺跡)は鎌倉幕府執権北条氏の館と鎌倉幕府滅亡後に北条氏の菩提を弔うために建立された円成寺との複合遺跡で1996年に国史跡指定された。
見学通路を進む。砂利道の左右にはロープで柵がつくられ中には入れない。
謎の赤いコーンがある。
自然豊かな場所にあり白い砂利道が映える。
自然豊かなのでハチ・アブ・トンボ・謎の羽虫がたくさん飛び交っていている。
14:43 1~2分歩くと少し開けた場所にたどり着き行き止まりになっていた。
北条氏邸跡はただっ広い草地で民家も見え史跡っぽい感じはあまりなかった。発掘調査で掘立柱跡・塀・井戸・区画溝などの遺構や多くの出土品が発見された後に埋め戻されている。
案内板が二つあり建物のイラストがかかれている。
案内板の先に赤いコーンが二つありイラストの赤い丸と赤いコーンを合わせ眺めると当時のあったあった場所がわかるらしい。
北条氏邸の当時の様子。発掘調査から館は北条三代の泰時の頃まで使われていたそうだ。夏場だと逆光で眩しかったりアブやハチが「ブ~~ン!」と飛び回っていて中々赤いコーンに印を合わせるのが大変だった。正面に民家が見えちょと痛い。
円成寺の当時の様子。円成寺は14代執権北条高時の母の覚海円成が北条一族の菩提を弔うために建立した。
北条氏邸跡は史跡を守る為か見所はあまり無くちょとがっかりスポットだった。14:46 次は守山遊歩道に向かった。
北条氏邸跡(円城寺跡) 守山西公園
住所 静岡県伊豆の国市寺家13 営業時間 見学自由 定休日 無し 駐車場有(18台 守山西公園駐車場)